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そらまめタグ解説② #あそびの真髄 ―― 【倉橋惣三編】

  • 7月13日
  • 読了時間: 5分

そらまめの保育の土台になっている「6人の保育の先人たち」の知恵を紐解くシリーズ。 前回のマリア・モンテッソーリ(イタリア)に続く第2回は、日本の幼児教育の原点を作った大先輩、倉橋惣三(くらはし そうぞう)の登場です。

保育の世界では知らない人はいない超・有名人ですが、教科書に載っているようなお堅い説明はちょっと横に置いておきましょう。彼の本質を一言で言うなら、子どもの心にどこまでも寄り添い、子どもと同じ目線で世界を面白がることができた「共感の達人」でした。



子どもの「おもしろい」を一緒に面白がった人

明治から昭和にかけて活躍した倉橋は、日本最古の官立幼稚園である「東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)付属幼稚園」で長く主事を務め、生涯をかけて子どもの姿を見つめ続けました。

当時の日本の教育現場では、大人が決めたお行儀や、綺麗に見せるためのお遊戯の「型」を子どもに教え込むような、形式主義的な保育が少なくありませんでした。前回のモンテッソーリの言葉を借りるなら、まさに「大人の都合でガチガチに縛った教育法」です。

そんな時代に、倉橋は著書『幼稚園雑草』などのなかで、強い警鐘を鳴らしました。 大人の都合で作った枠の中に、子どもを無理に押し込めてはいけない。子どもが自分の内側から湧き出る衝動のままに没頭している『遊び』の中にこそ、最高の教育があるのだと。

彼は四六時中、子どもたちが砂場で泥だらけになったり、積み木をめちゃくちゃに積み上げたりしている姿を、ただただ嬉しそうに、まばたきも忘れるような勢いで見つめ続けました。子どもが「あ!」と何かを見つけたとき、大人としての指導目線ではなく、子どもと全く同じ目線で「本当だ、おもしろいねぇ!」と心からワクワクできる、圧倒的な優しさを持った人だったのです。


よく似た2人。マリアと惣三の決定的な違い

ここで、「子どもが自分で選んで夢中になるのを応援するなら、前回のマリア・モンテッソーリと何が違うの?」と思われるかもしれません。実はこの2人、見つめている対象の「まなざしの角度」が違います。

前回のマリアが、手元の緻密な動きを通して子どもが「脳の回路(知性)」を構築していくプロセスを科学的に見つめていたのに対し、倉橋が見つめていたのは、その遊びに向かう子どもの「心の充実(感情のハジけ方)」そのものでした

指先をコントロールして集中する「#手の知性」の美しさを認めつつも、倉橋は、泥水をひたすら流したり、水たまりに飛び込んだりするような、一見すると目的のなさそうな、でも内側からの情熱が爆発しているダイナミックな「遊び」にこそ、子どもの生命の輝きがあると信じました。

大人がお膳立てしたプログラムではなく、子ども自身が「あ、これやってみたい!」と自ら世界に飛び込んでいく瞬間のきらめき。その自発的な遊びのプロセス(動的な姿)にこそ、子どもの人間性のすべてがギッシリ詰まっていると、彼は見抜いていたのです。だからこそ、私たちがアプリの記録でこのタグを添えるときは、こんな意味を込めています。

【#あそびの真髄】 大人が与えた課題ではなく、子どもが「おもしろそう!」と自ら始めた遊び。その一見意味のなさそうなドタバタや試行錯誤の中にこそ、心が揺さぶられ、主体性が育つ最高の学びの瞬間があります。

たとえば園では、こんな姿にこのタグがつきます

  • 園庭の隅っこで、バケツにひたすら泥水を溜めては流す、という一見「何の意味があるの?」と思う行動を、1時間近く満足するまで繰り返している時。

  • お友達と「ここは秘密基地ね!」と、大人にはただの段ボールのゴミにしか見えないものを囲んで、真剣な顔で作戦会議をしている瞬間。

  • 雨上がりの水たまりに、靴が濡れるのも忘れて思いっきり飛び込み、水しぶきが上がるのを全身で大喜びしている時。


先生たちの「プロの目線」の裏舞台

大人の都合だけで言えば、「泥水は汚いからやめなさい」「段ボールは片付けなさい」「靴が濡れるから水たまりに入っちゃダメ」と制限して、綺麗なお部屋で決まったおもちゃ(型)で遊ばせる方が、よっぽど楽です。

でも、先生たちは倉橋のまなざしを胸に秘めています。 「今、この子は自分の中の衝動で、世界をめいっぱい楽しんでいる」 そう確信したとき、先生たちはあえて口を出さず、汚れなんて気にせず、その子の「おもしろい!」に心の中で全力で並走しながら、そっとシャッターを切っています。


私たちが、あえて今倉橋惣三を挙げる理由

こうして令和の今保育をしながら倉橋の言葉を振り返っていると、一つの事実に気づかされます。それは、「100年前に倉橋が声を挙げた時代と、現代の日本の子どもたちを取り巻く環境は、あまり変わっていないのではないか」ということです。

「主体性」や「非認知能力」といった新しい言葉こそ飛び交っていますが、現代の幼児教育の現場を見渡せば、「主体性」という傘の元「勝手に自由に遊ばせておけばいい」と放任する保育が未だに存在するように思えます。その一方で、商業主義や映え、早期の英語・知育といった大人や社会の体裁のため「目に見える成果(型)」を子どもに詰め込む形式主義も、形を変えて残っていると思います。

100年前から倉橋や他の先輩方が必死になって「大人の都合で縛るな、ただ放り出すな」と戦ってきた『歪み』が、今もまだ消えず、続いているように感じてしまいます。

だからこそ、彼の代表作『育ての心』に遺された、「生活を生活で生活せよ」という言葉が今、重く響きます。子どもは大人に育てられる受動的な存在でも、大人の都合を叶える道具でもない。自らの生きた生活と遊びの中で、自ら育っていく絶対的な主体なのだという、子どもへの100%の信頼。これこそが、私たちが何より大切にしているそらまめの保育の魂です。

筑前町の豊かな自然の中で、子ども自身が「おもしろい!」と見つけた理屈抜きの遊びに、心の底から没頭すること。

型にはまった教育法よりも、その子の内面の「心のうごき」にどこまでも寄り添うこと。 これこそが、日本の保育の原点であり、私たちが今も一番大切にしている「そらまめの保育の魂」です。

アプリのキャプションにこのタグを見つけたら、「あ、今この子は自分の世界を思いっきり生きて、色々な楽しさを見つけているんだな」と、私たちと一緒にその温かい瞬間を面白がっていただけたら嬉しいです。

 
 

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