そらまめタグ解説③ #百の言葉 ―― 【ローリス・マラグッツィ編】
- 3 日前
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そらまめの保育の土台になっている「6人の保育の先人たち」の知恵をひもとくシリーズ。マリア・モンテッソーリ、倉橋惣三に続く第3回は、イタリアの実践家、ローリス・マラグッツィです。
レッジョ・エミリア・アプローチを語るとき、彼の存在は欠かせません。けれどマラグッツィは、ただ立派な教育理論を語った人ではありませんでした。大人の都合でつくられた教育の枠組みや、「こう育つのが正しい」「これができれば安心」といった大人側のものさしに対して、本当にそれだけで子どもを捉えきれるのか、と問い続けた人でした。彼の仕事をひと言で表すなら、大人が決めつけた“子どもの見方”を、根本から見直させた人だったのだと思います。
大人の「子どもの見方」を問い直した人
マラグッツィは、20世紀のイタリア、レッジョ・エミリアという町で、戦後の教育実践を長い時間をかけて育てていった人物です。戦争の傷跡が残るなか、地域の人びとは「子どもたちの未来を、自分たちの手でつくりたい」と立ち上がりました。その思いを、保育や教育の哲学として言葉にし、現場の形にし、社会へひらいていった中心人物の一人が、マラグッツィでした。
当時の幼児教育は、どうしても「子どもが大人になるための準備段階」として見られがちでした。言葉の発達、運動能力、絵の完成度、数字への興味。そうした“大人にとって分かりやすい基準”で子どもを見てしまう空気は、きっと当時だけでなく、今の私たちの中にも少しは残っているのかもしれません。
けれどマラグッツィは、そうした見方そのものに違和感を持ち続けました。子どもは、ただ「まだ未熟な存在」なのではない。子どもは、生まれながらにして、自分なりの方法で世界を感じ、考え、表し、誰かとつながろうとしている存在なのだ。彼は、そう信じていたのです。

「子どもには、百の言葉がある」
マラグッツィの名前とともに、世界中で知られている言葉があります。「子どもには、百の言葉がある」。とても有名な言葉なので、「子どもは言葉が豊かだ」という意味に受け取られることもあります。けれど彼が本当に伝えたかったのは、それだけではありませんでした。
描くこと、つくること、動くこと、踊ること、演じること、積むこと、壊すこと、音を出すこと、誰かの表情をまねること、黙って見つめること。子どもには、自分を表し、世界とつながるための方法が、本当は無数にあります。マラグッツィは、その豊かな“表現の道”を「百の言葉」と呼びました。
そして同時に、大人はときにそのうちの九十九を奪ってしまうのだ、と警鐘を鳴らしました。「わかる言葉で言ってごらん?」「もっと上手にできるよ」「こうしたほうが正しいよ」。大人には悪気がなくても、分かりやすい言葉や評価の型に子どもの表現を押し込めてしまった瞬間、その子が本来持っていた豊かな表現の道は、少しずつ閉じていってしまう。マラグッツィは、そのことをとても鋭く見つめていたのだと思います。
モンテッソーリ、倉橋惣三と並べたときの違い
ここで、「子どもの表現を大事にするなら、モンテッソーリや倉橋惣三と、何が違うのだろう?」と思われる方もいるかもしれません。モンテッソーリは、子どもの手の動きや集中の育ちを通して、その内側にある知性の芽を見つめました。倉橋惣三は、子どもが遊びの中で夢中になり、心を弾ませていく、その生命の輝きを見つめました。
そしてマラグッツィが見つめていたのは、子どもが世界を表すための“出口”そのものだったように思います。絵で表す子、身体で表す子、声で表す子、ごっこ遊びの物語で表す子、黙って素材に触れ続けることで表す子。どれも、その子にとっては大切な「ことば」です。一つの絵にひとつの意味だけを与えないこと。一つの行動を、大人の分かりやすい説明だけで片づけないこと。その子が今どの“表現の道”を通って世界とつながろうとしているのかを、丁寧に受けとめること。そこに、マラグッツィのまなざしの深さがあります。
だから、そらまめはこのタグを大切にしています
だからこそ、私たちがアプリの記録にこのタグを添えるとき、そこにはこんな意味を込めています。
【#百の言葉】大人が決めた正解や「型」のなかに表現を閉じ込めず、描く・つくる・演じる・動く・話す・聴く・沈黙する――子どもたちが持っている百の“表現の道”を、そのまま受けとめる瞬間です。子どもが自分らしい方法で世界とつながり、自分をのびやかに発信している、きらめきの時間でもあります。
このタグは、「上手にできたね」と評価するためのタグではありません。その子が今、どんな方法で自分を表そうとしているのか。どんなふうに世界とつながろうとしているのか。その姿を、私たちが見逃さずに受けとめるためのタグです。
たとえば園では、こんな姿にこのタグがつきます
たとえば、いつもと違うマーカーで紙いっぱいに線を走らせて、「見て! ピンクの海ができた!」と誇らしそうに駆け寄ってきた瞬間。たとえば、段ボールでつくった“自分だけのロボット”を友だちに見せながら、「ここがボタンでね、ここから動くんだよ」と目を輝かせてその世界を語っているとき。たとえば、ごっこの中で役になりきり、大人が思わず聞き入ってしまうほど自然な言葉や表情を立ち上げている瞬間。
また、絵の具がじわっと混ざっていく様子をじっと見つめていたり、窓から差し込む光と影の形を何度も確かめていたり、粘土を「何かの形」にするわけではないのに、ちぎってはくっつけ、その感触そのものに没頭していたりするときにも、このタグはつきます。 大人の目には「まだ作品になっていない時間」に見えるかもしれません。でも、子どもの内側ではその瞬間、たしかに何かが動いています。心がふるえる。驚く。試す。迷う。確かめる。夢中になる。その時間こそが、子どもが自分の“百の言葉”を使って、世界と対話している時間なのだと、私たちは考えています。
先生たちの「プロの目線」の裏側
大人が「もっと上手に描いてごらん」「こうしたほうがかわいいよ」と、つい口を出したくなるのは優しさから来るもので自然なことです。けれどその一言で、子どもが今まさに広げようとしていた表現の世界を、知らず知らずのうちに狭めてしまうことがあるかもしれません。(失敗との向き合い方についても、本当はここに深くつながっていますが、その話は第4回であらためて詳しくお伝えしたいと思います。)
子どもにとっては、色が混ざっていく変化を見つめることも、素材の手ざわりを確かめることも、ごっこの中で役になりきって友だちと言葉を交わすことも、それ自体が立派な思考であり、表現です。何かを完成させたから価値があるのではなく、その子が今、何に心を動かし、どう関わり、どんなふうに表そうとしているのかにこそ、大切な意味があります。
だから私たちは、先回りして「こういうことだね」と決めつけすぎないようにしています。今、この子は何を面白いと感じているんだろう。何を伝えたくて、どんな方法で表そうとしているんだろう。そんなふうに考えながら、仕上がりや正解を急がず、その子が今まさに生きている表現の時間を、丁寧に見つめています。
私たちが、あえて今マラグッツィを挙げる理由
マラグッツィの「百の言葉」は、単に絵を描くことや、ものをつくることだけの話ではありません。子どもが、自分の感じたことや思ったことを、自分らしいやり方で外へ向けて表していくこと、そして「自分はこうあっていい」「こう表していい」と感じながら育っていくことと、深くつながっています。
それは、そらまめが大切にしている「自分らしさ」や「主体性」と、まっすぐ重なるテーマです。そらまめでは、レッジョ・エミリア・アプローチの考え方も参考にしながら、子どもたちの表現が本物の感性と出会う場を、日々の保育の中で丁寧につくろうとしています。描くこと、つくること、演じること、感じること。そのどれもを、「うまくなるための練習」としてだけではなく、子どもが自分を世界に向けてひらいていく大切な営みとして受けとめていきたいと思っています。
便利な教材や、分かりやすい成果が求められやすい今だからこそ、私たちはあえてマラグッツィのこの言葉に立ち返りたいのです。子どもには、百の言葉がある。そしてその一つひとつは、大人が思っている以上に豊かで、自由で、力強い。だからこそ私たちは、その子の表現を急いで“正解”に置き換えすぎず、その子がその子のやり方で世界と出会っている瞬間を、これからも大切にしていきたいと思っています。
アプリのキャプションに【#百の言葉】を見つけたら、「あ、今この子は思いや感じたことを表しているんだな」と、私たちと一緒にその瞬間を見守っていただけたらうれしいです。




